村尾が上京してから2か月後の11年3月14日に許可がおり、女紅場開設のための具体的な最終の動きが始まった。まず上京中の村尾は、教員探しを始めた。俸給の面で折り合いがつかず、とりあえずは地元の裁縫の達者な者を雇い入れて間に合わせたが、その後市中の女子教育が盛んになる中で資格を持った女子教員が必要とされ、5月末には、広島の女紅場教員や東京公立小学校の教員を経験し文学・裁縫ともに堪能な安井マサを月奉10円で小学教科伝習所教員として東京で採用(来函したのは同年7月)、彼女に女紅場教員をも兼任させることとした(明治11年「出京伺上申文移留」道文蔵、明治11年「函館往復」)。なお安井マサは翌12年1月から本・支両女紅場の教員の責任者である監督に任命されている。
さらに直接の担当責任者である役員には当分の間戸長が当たることとなり、常野与兵衛(13年11月から興村忠兵衛)と副戸長枚田要蔵それに建物の提供者である小島重兵衛の3人が就任(明治11年3月27日付「函新」)し、函館支庁は民事課勧業係が担当ということになった。計画当初は民事課学務係が担当だったが、10年8月から「女工」が主ということで勧業係の担当へ代わっている(明治10年「取裁録」道文蔵)。この担当の交替からも女紅場の性格の一面がうかがわれる。