女紅場の閉鎖

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 女紅場は「年ヲ遂テ生徒ノ上達ヲ見ル、初発被服ノ洗濯スラ為シ得サリシ者、又自己ノ姓名ヲ書記シ能ハザリシ者、今日普通書読ニ差支ナク、絹布ノ裁縫ヲ為シ得ル迄上達セシモノ少ナシトセズ、已ニ醜業ヲ脱シ粛然家政ニ当ルモノアリ、就中曩ニ娼妓ニシテ一丁字(ママ)ヲ知ラサル者同場ニ入リ、就学三年ニシテ自ラ大ニ悟リ、断然醜群ヲ脱シ良家ニ嫁シ、傍ラ女紅場ノ補助ヲ為スモノアリ」(明治20年1月「函館支庁事務引継演説書原稿」北大蔵)と幾分その成果が表れて来てはいたが、前述のとおり不景気による賦金収入の減少に加え、探偵費の負担あるいは建物の老朽化に伴う修繕費の増加など財政面は苦しかった。一方本場の老朽化は激しく、かなりの修繕費を必要としたため、蓬莱町の近くに適当な土地を購入して新築することを計画、19年中に本場の土地と建物を2000円で売却した(同前、明治20年1月22日付「函新」)。しかし再築されることなく開設時に開拓使から拝借した負債の10か年賦も終わりを遂げる20年5月5日、女紅場は本場、支場ともに全く廃されてしまったのである(5月10日付「函新」)。廃止直前の女紅場役員は表13-9のとおりだった。廃止により同場役員のうち取締興村忠兵衛は従来兼任だった蓬莱町の二業取締へ、支配人古野嵩長は同雇いへ、会計富田五三郎は台町の二業取締へと転任した。
 こうして芸娼妓たちが正業に転ずる日のためにと官のお声がかりで開設された女紅場ではあったが、「正業についた時のために」という理想と現実のギャップを埋め切れないまま約10年でその歴史を閉じたのである。
 
 表13-9 女紅場役員表
職 名
月俸
氏  名
 
 取 締

16
 
興村忠兵衛
 会 計
13
富田五三郎
 支配人
  〃
11
10
古野嵩長
平木実光
 教員監督
15
安井マサ
 教
 
 
 員
文学
 〃
 〃
11
6
5
東浦イソ
厨川サト
松谷ミサ
裁縫
 〃
 〃
7
7
*
野田ミエ
後藤シマ
船山キミ
和洗濯
5
井本五百村
洋洗濯
5
4
青田セソ
小山ユキ

 明治20年
 「函館支庁事務引継演説書原稿」より
 *は日給扱い