我が国における新聞の起源は「読売瓦版」だといわれているが、最初の新聞といえば、文久2(1862)年に蕃書調所で発行した翻訳新聞「官板バタビア新聞」を挙げることができる。この新聞(形態は冊子)は、幕府が海外の事情を諸藩に知らせることを目的にオランダ語の新聞を翻訳、掲載したもので、世界主要国の政治・経済・文化などの照会にあたった。こうして幕末から始まった新聞の発刊は、戊辰戦争の戦況を伝えるためのもの、新政府の政策や府県の布令を伝達するためのものなどを中心に発刊が続き、明治元(1868)年から6年までに発刊および発刊予定の新聞は約77種類にも達したという(『新聞集大成』)。こうして新聞は日に日に欠くことのできない情報伝達機関となっていたのである。政府もこれを認め、2年2月には「新聞紙印行条例」を制定して発行許可制により正式に新聞の発刊を認め、5年からは主要新聞3紙を官費購入して各府県庁に配付し関係者に回読させた。また一方、無秩序な発刊を統制するために6年10月「新聞紙発行条目」を、8年6月には「新聞紙条例」を達して、より強化にその取締も進めていった。
この頃中央と掛け離れた遠隔地である北海道で働く役人たちは、中央からの情報伝達の遅延や情報把握の困難さをことさら不便に感じ、新聞の必要性を痛感、機会あるごとに当時唯一の情報伝達機関であった新聞の発刊あるいは新聞縦覧所の開設を訴えていた(明治6年「会議書類」道文蔵)。この要求を満たすため、開拓使は6年東京出張所内に印刷所を開設、中央で発刊されている数種の新聞の中から北海道に関係のある記事を選択・編集した東京の新聞のダイジェスト版「新報節略」を発刊して本・支庁の官員に配布した。こうして道内にも新聞らしき印刷物が出現したが、これはあくまでも中央主体、官優先のものであって、一般の人々の目に触れることはほとんどなかった。この「新報節略」は8年4月に廃刊となった。翌5月には新聞の官費買い上げも廃され、その代策として各庁常費内から年額80円を新聞費額に充て適宜新聞を購入して良い旨が内務省より達せられた(『新聞集大成』)ので、開拓使は「新報節略」廃刊の善後策として「東京日日新聞」を本・支庁へ一部ずつ下げ渡し回読させた(明治8年「部下布達達録」道文蔵)。