彼らの見込み通りこの小さな印刷所は、間もなく株主制の本格的な印刷所「北溟社」へと変わっていった。その切っ掛けとなったのが9年の東京日新堂(当時「東京曙新聞」を発刊)主筆青江秀(のち北海道庁理事官)の来函だった。日新堂はこの時期すでに青森に県庁と合同で印刷所青森日新(進)堂を開設しており、その印刷所から函館と合同で新聞を発刊しようと計画、来函した青江は、この案を早速函館支庁へ提案したのである。
このころ函館でも実現はしなかったが既に新聞発刊の動きは起きていた。たとえば5年には、函館支庁自ら印刷機械を備え付け新聞を発刊しようと、文部省の同意を得て当地で職人を雇い入れるところまで話が進んだが、途中で打ち切られている(「開公」5728)。恐らくこの時に備えた機械を鋳之助が拝借したものと思われる。ほかに6年には福山出張所の官員が開港場である函館からの新聞発刊が開拓の一役を担うだろうことを建議、支庁官吏の有竹裕や村尾元長らも新聞局や印刷所それに新聞縦覧所の必要性を説いている(前掲「会議書類」)。また7年には黒田清兵衛と蛯子砥平が、函館支庁から5か年月賦で資金を借り受け漁場を対象に新聞を発刊しようとしたが、将来の見通しがないために資金貸与が認められず退願している(前掲「准刻書類」)。
さて青江が函館と青森合同でという提案理由は、青森だけではニュースソースも足りず、また購買力にも限界があるので、経済力のある函館と合同でなら新聞発刊を事業として成功できるのでは、ということだった。条件は、(1)本局は青森・函館の両地に置くが、印刷は印刷所のある青森で行なう、(2)機械設備をするための費用がかかっているのだから、印刷から生じる一切の権利の7割は機械のある青森が占め、紙面構成は函館を優先とし掲載事項の7割を函館が占める、(3)資本については株主制とし、函館・青森それぞれ135株・675円を創業初年に徴収し、(4)初年から利益を得ることはできないので2、3年の赤字は覚悟して欲しい、ということだった。もうすでに東京、大阪などを合わせると約80種類におよぶ新聞が発刊されていたこの時代に、北海道では前述のように試みはあったのだが、まだ1紙の新聞の発刊もなされていなかった。開拓使の役人の間でも新聞の必要は感じられていた時だっただけに、話を持ち掛けられた函館支庁の官吏は早速この話に同意、話を受けた有竹祐、吉田義方、荒井義備、村尾元長の4人は戸長白鳥衡平、井口嘉八郎と協議、この話を市中の有志たちへ下ろすことになった。