函館新聞の発刊

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 北溟社が開設した10年の暮れの12月13日、早速北溟社社長渡辺熊四郎から「新聞発刊願」が開拓使へ提出された(前掲「准刻書類」)。「新聞発行願」によると、「紙号-函館新聞、刷行ノ定期-毎月二、七ノ日、持主-開拓使平民北溟社渡辺熊四郎、編輯人-宮城県平民佐久間健寿、印刷人-開拓使平民伊藤鋳之助」となっていた。編集長の佐久間健寿は嘉永3(1850)年生まれで代々仙台藩のお抱え絵師である佐久間家の出身、初期は政治に志したがのち画業を受けて画家となり、文部省美術審査員や日本美術協会会員、同会顧問となった人物で、大正10(1921)年没した(『大日本人名辞書』)。彼が編集長をしていたのはこの政治に関心を持っていた時期だったと思われるが、函館新聞の編集長は11年8月まで、わずか8か月の就任だった。後任は野村庸直である。

「函館新聞」創刊号

 
 暮れも押し迫った10年12月27日、内務省からの許可がおり、翌11年1月7日、北海道で最初の民間の手による新聞「函館新聞」が発刊されたのである。紙面の大きさは今の新聞の半分ほどのタブロイド版、西洋紙2枚両面刷りで4面、1面3段組、官令をはじめ市内および道内外の雑報・相場・広告などを載せ、文面には一般庶民層にも広く購読してもらうため振り仮名をふるなど、当時中央で多数発刊されていた政論中心の″大新聞″ではなく、啓蒙とニュースの提供を目的とした一般向きの″小新聞″として発刊された。この紙面構成は以後大きく変更されることはなかった。またこの新聞の発刊には函館支庁もかなり協力的で、創刊号が発刊された日、札幌本庁へ1部送付するとともに「当分多少ノ保護ヲ加ヘサレハ維持致シ兼候掛念モ有之」として、「於貴地ニ売捌候様御注意有之度」と、本庁管内での函館新聞販売を依頼する文書を送っているほどである(明治11年「函館文移録」道文蔵)。結局読者層の基盤のない北海道で新聞を発刊し事業として継続していくためには、官庁の保護に依存しなければならなかったのである。