この類焼後のめまぐるしい動きの中での前述の約1か月にわたる休刊、実はこの間に社長の交代が行われたのである。13年3月9日、社長の渡辺熊四郎から「今般示談ノ上、山本忠礼譲受候ニ付、此段御届申上候」(前掲「諸願届書」)という届書が内務省宛てに提出され、社長が山本忠礼に交代したのである。内務省の許可を得たのは6月11日だが、忠礼は″届″が提出された3月から社長としての仕事を始めていた。再刊第1号つまり3月18日付309号の函館新聞の社告には「客冬本湊火災ノ際、敝社併ニ旧社長渡辺熊四郎商店トモ類焼致候ニ付、同人儀ハ将來商業事務繁劇ニ付社任ヲ辞シ、今回更ニ山本忠礼ヲ入レテ社長ノ任ヲ委托セリ」と忠礼に社長が委託されたことが書かれていた。本業の多忙を理由に熊四郎は忠礼へ社長の座を譲ったのである。
新たに社長に就任した山本忠礼は、その年5月には松蔭町(のちの富岡町5)へ社屋を新築して移転、翌6月からは被災以前の通り隔日発刊へ戻すなど、被災後の北溟社の復興体制を意欲的に整えていった。山本忠礼は愛媛県の出身で、9年10月司法省に採用され、翌11月函館裁判所詰めを命ぜられて来函、11年3月裁判所を依願退職、同僚の英俊恵らとともに一諾社を起こし、この頃盛んに開かれていた政談演説会の主要メンバーとして函館の言論界をリードした人物である(永井秀夫編『北海道民権史料集』、以下『民権史料集』とする)。なぜ忠礼が譲り受けたのかは不明だが、その忠礼が社長に就任していた間の函館新聞には、彼の名入りの論説が1面に何度か登場するなど、従来あるいは以後の函館新聞とは体裁を多少異にした主張のある政治色の濃い新聞となっている。特に彼が新聞紙上に発表した「国会論」「郡区長ノ集会」「北海道民会論」などは、当時進められていた函館の有志による区会開設請願に大きな影響を及ぼしたといわれている。恐らく忠礼は自らの政治活動との関係で新聞を必要とし、社長に就任したのであろう。