政党新聞としての性格の強い北海はしばしば発刊停止処分を受けた。23年7月31日の新聞が「治安に妨害あり」として翌8月7日~21日まで発刊が停止されたが、再刊された8月22日の北海は、社説に「新聞紙条例の改正を望む」と題し、言論の自由を抑圧している内務大臣の発刊禁止・停止権を強く否定する論説を掲げている。この内務大臣の発刊禁止・停止権は16年の新聞紙条例で保証金制とともに新たに加えられた内務大臣の権限である。
この発刊停止処分の間の8月11日、巴港社の株主大懇談会が開催された(8月12日付「北海」)。馬場民則が社長工藤弥兵衛にかわり開会の趣意を述べ、株主一同を代表して高橋文之助が今後も方針を変更せずなお一層の「直筆公論」を主張することを望む趣旨の演説をし、佐瀬精一が答辞を述べている。その席上、目的・性質は「北海」と同じ別の1紙発刊の声が上がり、にわかに発刊が決まったのが「北海公論」であった。そして再び北海が発刊停止処分を受けた翌9月1日、「言論を以て社会に耳目たり公衆の先導者たる可き機関の、一日も欠く可らざるは固より論を俟たざる所なり」(9月1日付「北海公論」社説)として、北海の代替紙「北海公論」の創刊号が発刊されたのである。
この頃小樽では、立憲改進党系の新聞「北海道毎日新聞」に対抗して「北門新報」が創刊され主筆に中江兆民が招かれた。函館では中道的な小新聞の立場を維持していた函館新聞が、24年6月16日の3063号から主義を明確にし、社説や「寸鉄」と題した時評を載せるなど記事の改良を実施、同時に1面を6段に題字を右端に寄せるなどして字数も増やした。同日の新聞には「函館新聞の主義を表白す」と題した論説を掲載、その主義として具体的に(1)本紙は平民の友たるを期す、故に本紙は平民主義を奉ずるものなり、(2)本紙は進歩の友たるを期す、故に本紙は進歩主義を奉ずるものなり、(3)本紙は正義の命に従ふを期す、故に本紙は正義の外何物にも服従することなしの3点を掲げた。函館新聞も以後の編集における主義を明確にしたのである。