(前略)当時議員たる人々は一流の紳士のみであって、改選に際しても候補者を定めは定めたが、有権者に対して一片の推薦状を発したのみで、現今の様な運動だの戸別訪問だのをしなかったものである。然るに小橋栄太郎一派は、函館の富豪が常に細民いぢめをやるとか何とかの口実を設けて盛んに反対運動を試みたものである。紳士派では「何を小癪な小橋輩が」と多寡を括って居たのであったが、開票の結果は意外にも小橋一派の全勝に帰し、函館区を挙げて小橋一派の天下となったのである。斯くて天下を我が物にした小橋一派は、時の北海道庁書記官函館区長財部羌と結託して頻に何事か画策したものである。当時我が函館には伊藤鋳之助翁の「函館新聞」(北溟社)と、合資会社発行の「北海」と、小橋栄太郎の「北のめざまし」の三新聞があって、函館新聞は頻に此間の醜事を摘発し攻撃して盛んに区民の公益養護に務め、北のめざましは小橋一派の養護に務めたが、独り北海は多数の出資者中首鼠両端を抱くものありて合資会社の解散を主張するもの多数を占め、遂に此問題に筆力を振ふの機会を得ず(以下略) (「二十年前の思出」大正七年五月二十二日付『函館毎日新聞』) |
表13-14 明治後期新聞発刊部数
新聞名 | 明治29年 | 明治31年 |
函館新聞 ↓ 函館毎日新聞 北 海 ↓ 北海新聞 北のめざまし ↓ 函館日々新聞 | 588,738 - 401,388 1,829 888,690 - | - 595,599 - 390,320 - 454,488 |
各年『北海道庁統計書』より作成
つまりこの補欠選挙とその後の小橋一派と区長の醜態を摘発・攻撃し区民の公益擁護に努めたのが函館新聞であり、小橋一派の擁護に努めたのが北のめざましであり、そして出資者それぞれの思惑があって2派に分かれ会社の解散が持ち上がり筆力を紙面に発揮しきれずにいたのが北海だったのである。これら3紙の関係を発行部数でみたのが表13-14である。29年の北のめざましの伸びが目につく。このような事情を背景に既刊各紙の改題が行われていったのであるが、次に改題について具体的にみてみよう。