物産の収集と展示

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 新政府は明治3年、物産局仮役所を通じて各地の物産を収集させていたが、翌年文部省が設置されるとその仕事は新設の博物局に引き継がれることになった。5年2月、大政官正院内に博覧会事務局を置き、次いで、翌年開催するウィーン万国博覧会への参加に備えて収集していた出品物などを展示した博覧会が、東京湯島の元昌平坂聖堂において行われ大盛況を呈した。同年3月、函館へも博覧会掛織田賢司が巡回し、この地方の出産物や珍しい物品などの買上げについて市中へ布告を出した。その後7月になって開拓使庶務掛より次のような布達が出された。
 
今般致採取候北海道物産為取調致羅列置候ニ付、本日午後第一時ヨリ明後十九日第四時迄、右物品天神社内柳川ニ於テ展覧可有之候也
    壬申七月十七日               庶務掛
(明治五年「支庁布達々書原稿」道文蔵)

 
 とあり、今回収集した北海道の物産を函館の天神社境内にあった柳川という料亭を会場にして陳列し、3日間に限り一般住民に公開したのである。
 また、開拓使は東京芝増上寺境内にあった東京出張所へ道内出産の動物、植物、鉱物その他の珍しいもの、有益なものを集めて陳列した北海道物産縦観所を設け、さらに9年3月、仮博物場と称して庶民にも展覧を許可したい旨を上申した(明治9年『開拓使公文鈔録』)。この仮博物場は同年5月10日に開場し、祭日、祝日、年末年始の休暇を除いた毎日開場のこと、本場は北海道の産物並びに製造品を収集し、また同地へ植え付ける内外の植物などを陳列していること、花や果物の種子などは希望者があれば払い下げること、などを布達した(明治9年5月11日付「読売新聞」)。