明治期における函館の社会労働運動が進展するのは、「社会主義思想」が労働者の気分感情を捕えるようになる明治30年代以後であるが、それ以前には明治6(1873)年3月開拓使函館支庁が福山および江差方面の漁民に海産税を1割課税したことを契機に、4月15日爾志郡8か村の村役人らが江差役所に5分減税を嘆願した漁民騒擾が起きている。続いて5月17日福山西在8か村の役人らが福山役所に1か年の免税を嘆願、5月24日江良根部田8か村の漁民らが、不漁と窮乏から減税を願い出て、それに福山の町民や福島の村民らが同調するなど、騒ぎは広がりを見せた。そして、6月6日桧山、爾志2郡の漁民1000人が江差でふたたび騒擾事件をひき起こしたが、江差役所は独断で減税を約束したため騒ぎは一応治まった。その後、砲兵隊も出動して沈静化にあたったとする記録が残されている。
明治10年代になると北海道においても自由民権運動の高揚がみられるが、函館では本多新(室蘭)の呼び掛けにはじまる北海自由党の結成、山本忠礼の活動が注目される(第2章第5節参照)。
明治20年代に入ると資本主義の発展にともなう労働者数の増加と、低賃金・無権利の労働条件が問題になり、特に日清戦争後、労働争議とそれにともなう社会問題が発生するようになった。
全国的には明治30年7月5日に片山潜、高野房太郎らが「労働組合期成会」を結成し、その指導の下に鉄工組合が滝川、旭川、札幌で組織された。そして、組織拡大のためにわが国の社会主義思想導入に先駆的役割を果たした安部磯雄、片山潜らが来道、全道各地で演説会を開催するようになった。安部は明治30年7月函館で演説会を開いている。片山は、明治32年7月17日午前11時の青函連絡船「東京丸」に乗船、午後5時函館港に到着。午後8時同港から海路室蘭に向かい、翌18日から26日までの10日間札幌と旭川の間を2往復、滝川・旭川・札幌の鉄工組合支部の指導と、演説会を各地で開催し、27日に室蘭より「敦賀丸」に乗船して青森に戻っている(渡辺惣歳『北海道社会運動史』)。片山はこの初めての渡道において往路函館に立ち寄っているが、この時函館では特別な会合を開催していない。恐らくこの時の片山の道内行脚の目的は鉄工組合支部の指導にあったため、同支部の存在していなかった函館は一通過点に終わったと思われる。
しかし、函館においても先駆的な労働争議が起きている。明治30年の下期から、翌31年にかけては、全国的に労働争議の高揚した時であるが、この年の8月7日、函館郵便局、電信局の集配人70余人がストライキを起こした。明治年間の逓信労働者によるストライキの総件数は32件を数え、そのうち10件は明治29~31年の3年間に起きている(大原社会問題研究所編『社会・労働運動大年表Ⅰ』)。その多くは集配人によるものであり、彼らの要求の大半は低賃金の待遇改善問題であった。この争議の詳細は不明であるが、こうした全国的流れの一環であったと思われる。
明治30年代の全国的な労働運動の高まりの中で明治31年10月18日村井知至、片山潜、安部磯雄、幸徳秋水らによって「社会主義研究会」が組織され、社会主義思想が伝播していった。この時、函館においても「社会主義研究会」が結成されたという文献もあるが、資料は確認されていない。