第六条 防禦海面に於て一切の漁猟採藻を禁ず
これに関連して、2月21日付の「函館新聞」に、「防禦海面と漁業」という記事が掲載されているので、その一部を引用しておこう。
此の防禦海面内に於て一切の漁猟採藻を禁ぜられたるを以て、当港漁民は空しく手を拱するのみにて、防禦海面令の施行を撤去せらるゝまでは全く生業を失ひたることゝなり、随つて区内に於ては甚しく魚類の払底を告げ、目下僅に室蘭方面より輸入するものを以て不充分ながらも区内の需要を充たしつゝあるが、漁業者中には、既に鰊漁業の準備を偽したるものもあれど、是等は全く画餅に帰したるを以て尠なからず苦悶し居る趣なり(下略)。 |
この記事の最後に触れられた鰊漁業者の「苦悶」は、やがて現実のものとなった。後述するが、函館区の事務吏員で「臨時戦時事務取扱」を命ぜられた人々の活動を記録した「臨時事務概要日誌」(明治37年「亊務報告原案」「第九回区会議案原議」、以下「日誌」と略記)の中に、次のような記述がある。
(四月)七日 目下当港内ハ鰊漁ノ好期ニ際シ、各出漁者ハ争フテ漁獲ニ従事セルヲ以テ、誤テ防禦海面ノ区域ニ侵入スルモノアリ。其違犯者ハ相当所罰セラルヽモノトスルモ、夫レカ為メ国家重大ノ施設ニ障害ヲ及ホスアランヲ恐レ、禁止区域ニ侵入スベカラサルコトヲ懇々告諭セリ。 |
因に、函館港近海の鰊漁場は合計36か所あり、その中27か所がこの防禦海面令内に存在していた。このため、明治37年は14か所、同38年には15か所での着業を当局より「黙許」され、それ以外は、別の漁場での「待網」着業の許可を得ている。しかし、とりわけ38年の場合は「近海不魚」が著しく、『函館商業会議所月報』は、「此れが為めに蒙むりし影響を特筆する能はさるも、間接に蒙むれる損害は蓋し尠少にあらさるへし」(同30号、明治38年9月)と述べている。
この鰊漁に次いで、6月になると柔魚(いか)漁が問題となっている。即ち、函館港には「防禦海面令」を施行し居るを以て本年の柔魚漁業は絶対に禁止せらるべし抔」の「風説」を流す者がいたため、6月22日付で北海道庁令第85号が出され、「函館港近海に於て柔魚業に従事する者」は「防禦海面の妨害とならさる限りに於て漁業を許可することとなり」、これに違反した者は、拘留又は科料に処せられたのである(明治37年6月24日付「函館新聞」)。
以上みてきたように、この「船舶心得」第6条の規定は、函館区の関係漁民の「生業」を奪っただけではなく、区民の生活にも甚だしい「魚類の払底」といった影響を及ぼしたのであった。なお、これが解除されたのは、翌38年4月18日である。