『明治十九年 各村創立聞取書』に、
今ヲ去ル事四百八十有二年〔則明徳元年〕笠原右源太〔何レノ人カ不明〕初メテ当村ニ永住センコトヲ企ツルト雖、飲水ノ乏キヲ憂へ、然シテ一日蝦人ニ問テ曰ク、此地ニ於ルヤ井ハ素ヨリ難シ仍テ流水ナキヤ 蝦人答テ曰、湖アレトモ毒水ニテ飲者ハ皆斃ルト。右源太弥々憂へ、直チニ其湖ニ至リ其水ヲ験シレハ蝦人常ニ用ヒタル器具アルヲ見テ清水ナルヲ悟ル〔此湖ハ往古ヨリ大亀ノ住アルヲ以テ四方ヲ亀太ノ郡ト云フ。今ハ函館区海岸町ニ組入、後亀ノ行衛ヲ知ラズ〕
とあり、湖があってそこに大亀が住んでいたので亀太の郡と言うと亀田の地名由来を説明している。