稲作の北進

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 亀田地方では開拓使の援助や農民の努力により水田面積は年々増加して行ったが、北海道全体では開拓使の奨励や保護があったにもかかわらず、生活難のため農業を捨てる者が多く、水田耕作により生計を立てて行くことは非常にむずかしいことであった。しかし、農民有志の努力により、少しずつではあったが札幌付近にも作られるようになり、明治二十五年この状況を見た北海道庁長官北垣国道は、米作を積極的に推し進めることとし、明治二十六年、七重種畜場と札幌郡白石村に水田試作場を設置した。以後、良好品種を近郊農民に配布、これが刺激となり、次第に札幌、旭川方面へと稲作地域が広がって行った。