寺子屋の教育

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 武士の教育については、藩が力を入れていたが、庶民は家塾或いは寺子屋において、読み書きそろばんの学習を主としたものであった。農業を職とする一般民は読み書きの必要はなく、公職にある者は無学では不便であったので、在方において読み書きのできる者は尊重され、書役として公私の仕事を処理する立場にあった。書役として、鍛冶村に柏谷利三郎、中道に菊地某、神山村に谷口八十吉(越田と改姓)、古川某が居住して、子弟の指導に当っていた。(鍛神小学校沿革誌、神山村誌)
 『日本教育史資料八』によると、次のような記録があり、亀田地域における寺子屋の状態を推察できると思う。
 
[亀田地域における寺子屋]
学 科旧管轄所在地開  業廃  業男女教師男女生徒調査年代身分習 字 師 氏 名
読書算術幕府領神山村嘉永五年
(一八五二)
文久二年男  一男 一五万延元年越 田 八十吉
 同 同鍛冶村弘化元年
(一八四四)
嘉永四年同  一同 一六弘化元年画工春 山 東 幸
 同 同亀田村安政二年
(一八五五)
万延元年同  一同 一五万延元年村 田 治 門

 乙竹岩造の『日本庶民教育史』によれば、北海道においては、特に市街地を形成しているところは、寺子屋に学ぶ子弟が多く、村落の場合は僅少であったことを述べている。その点では亀田村、神山村、鍛冶村などに寺子屋が存在して、それぞれ子弟の教育に当ったことは、まことに喜ぶべきことであった。