神山学校の誕生

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 (一)学校の設置 明治十三年四月、素木真龍の学校設立のすすめに従い、村民の協力により、四九名が金二七七円を負担して、村の無量庵(大円寺)を借り校舎とした。神山学校と称し、変則小学科を教え、七月教則を修正した。翌十四年には七重勧業試験場から桑苗七五八株を賜わり、付属畑三段一畝一歩の地に栽植した。同年七月、越田弥吉が畑地五畝歩を寄付したので、学校敷地と定め、村民が金二八三円を分担して校舎新築の工事を起し、九月落成した。維持方は初め補助金授業料などを基とし、各戸数に対しての割り当ては三等に分け、上三〇銭、中二〇銭、下一〇銭として校費に充当した。十四年度以後は適宜積立加息法を定め、授業料を廃止した。

開校当時一覧(開拓使事業報告)


開校当時一覧

 
 (二) 開校当時の状況
 職員は因藤徹也(十三年四月より三十四年十月まで勤務)一人で、鍛神小学校発足まで終始一貫子弟の教育に当り、併合と同時に辞任した。新校舎は十四年九月十日、越田弥吉宅の位置に落成移転した。学校世話係(学事功労者)は越田竹蔵、菊谷喜代八、亀井万蔵、木村吉三郎、佐藤順了(和尚)の五人で、学校の振興について協力した。学校の編制上のうつりかわりは鍛冶学校と同じである。