赤川学校の誕生

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 明治十三年四月、学校設立について村民が協議し、七〇名が金三一四円を負担のうえ、六月校舎新築に着手して七月落成した。八月開校して赤川学校と称し、変則小学科を教えた。翌年四月、七重勧業試験場から桑苗九〇〇本を受け取り字石川畑三段歩に栽植した。維持方は授業料及び戸数に対しての割り当てた金を基本にした。

開校当時一覧(開拓使事業報告)


開校当時一覧

 (一) 開校当時の状況について、新聞記事(明治十三年八月)には次のように報じている。「前号にも一寸出したとほり一昨日は赤川村赤川小学校の開業式にて、当支庁よりは小貫六等属村岡七等属渡辺十等属等の諸氏其他郡長広田千秋郡書記坂本信近学事取締素木等の諸氏が出張され、午後一時各々席定まりて、先づ小貫氏は時任君には御用の都合に依り臨席無之旨を演説され、次に本校教員和田氏が校則を朗読し、続いて鍛冶神山等各学校生徒の祝詞あり、各読み了って後本校建築費の内へ金円を寄付せし工藤嘉兵衛近江新三郎等外六十九人へそれぞれ賞与あり、同二時三十分一同退散す。
当村は亀田村につぐべき大村なれば、当日の参観人無慮二百余人にて近頃の盛式なりし由、本校は新築に係り前口六間奥行四間にて教場其他とも至極都合宜しく、建築費は凡そ三百五十円なりと言ふ。左の一篇は本年三月開業の鍛冶学校七級生増川定蔵とて十一才の子供が作りしものにて、先づ村落には珍しき事故此に掲げてお目に觸れます。『近きより遠きに行く卑きより高きに登るは路の順序、小学の科は即大学の初歩たり、小学校の成る就学生徒猶日に増し月に加うるが如し。予輩入門して一定期なる否、然れども聊か学の貴きを覚ひ教師と父母との恩淵よりして深き所を悟り卑きより高きを知る事日に増加す。之れその感あり、本校に昇降する諸君よ同年輩と倶に一歩よりして一歩を進め高きに昇らざるを得ず。然して後その恩を報せんと就学して愉快を得ると又本日の開業に際し以て一層且またその愉快を重ねて祝す。』」。教育に対する官民の熱意を伝え、開校式の様子が推察される。
 
 (二) 明治十四年、赤川小学校の備品は次のとおりであった。書籍四八部(一八九冊)、掛図一五枚、地球儀一、テーブル一四、椅子一六、黒板二枚、そろばん二、時計一、寒暖計一、硯箱一、印形一通、日課印一通、煖室炉一通。
 
 (三) 公文書(明治十四年十月三日)には次のような記録が残っている。「当校ハ山麓ナル僻地ニ設在候モノニ付文化ノ隆盛学事ノ進歩ヲ窺フニ由ナク為ニ生徒見聞ノ狭キヨリ怠惰ニ流ルル患ナシトセズ故ニ一日御用済ヲ受ケ函館市街ノ学校ヲ参観為致度心掛ノ処爾来校務多忙ニテ未タ其意ヲ果サズ甚ダ以テ遺憾ト存居候処明四日ヨリ五日迄近隣ノ諸校湯川校ニ於テ集合試験御施行被有候ニ付生徒五六名相率イ参観為致度候各生一層奮発心ヲ惹キ起スノミナラズ他日好結果ヲ得ル基トモ可相成存候付ハ参観致度件御伺候也 庶務課御中」以上に対して許可指令は「今般湯川学校ニ於テ集合試験施行ニ付テハ明日生徒五六名相率イ参観致度旨御書面之趣キ了承右ハ至急当方ニ於テモ望ム所ニ付聊カモ差支無之候条左様御承知相成度此段及御回答候也」(同校沿革誌)とあって、他校参観あるいは校外学習の必要を説き、その実践に当っていた。
 

赤川小学校の卒業証書

 (四) 「私たちの学校」 (創立九十年の生いたち)によれば、開校当時は一人の先生(羽賀)で前後三十二年余も勤務したので、教え子たちが昭和三十年に校庭の入口に記念碑を建て、その徳を讃えている。第一回卒業証書を手にした人は三人(高瀬忠太郎、近江孫作、永田三次郎)で、明治十九年四月七日となっている。学校は十三年に開いたけれども卒業するためには、初等科大試験に合格しなければならない規定であった。明治二十年秋には、亀田、鍛冶、神山、赤川、桔梗の各校から亀田小学校に集合して、テストを受け、パスした者が卒業証書を受けたという。このテストを簡易科大試験といい、赤川からは二名だけパスした。この試験は九か年間も続けられた。二十四年、上磯小学校で方々の学校から、作文習字の外、たび、あみもの、ぞうり、なわなどの生徒の作品を展示したという。家庭で使用するものを作る実用的な教育内容であり、よく働くことに力を入れた教育であった。二十七年、亀田、赤川、鍛冶、神山の各校の連合運動会を七重浜で行うなど、各校の親睦及び協力を考えていた。