明治二十三年二月、亀田村外五か村戸長の達しには、街路取締規則施行の結果、馬の口を取って歩くことになったので、近郊農村民で函館に行商に赴くものは、学校を休ませて学童に馬の口取をさせるものが多くなり、退学あるいは欠席するものが続出しているから、十分注意されたく、またその模様を報告せられたいと書かれていた。義務教育といっても、就学しない子どもたちもいた当時としては、就学の奨励には熱心であったと思う。明治三十五(一九〇二)年に至っても、就学を奨励する必要上、子守をしながら通学する児童に対して、便宜を与える規程が公布され、また学事奨励規程によって、就学並びに出席状態の成績優良の学校に対しては、北海道庁より名誉旗が授与されたほどであった。
明治十八年末各小学校の在籍数は、
亀田小学校一〇三 鍛冶小学校二九 神山小学校一二 赤川小学校三四 桔梗小学校一二であった。