鍛神小学校の誕生

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鍛神小学校

 鍛冶小学校および神山小学校は明治十三年村民の協力によって、それぞれ無量庵、稲荷神社を仮校舎として誕生し、その後校舎を新設したが、年々児童数も増加して、校舎、校地の狭隘を告げるに至り、地理的にも鍛冶、神山が相接して同環境であることなどから、両校の合併機運が盛り上がるようになった。統合までは容易でなかったがようやく妥協して、明治三十四年九月三十日併合認可となり、字中道(現在地)に池田音右衛門の地所四反三畝二七歩を二六三円四〇銭をもって買上げ、建坪二四二坪五合五勺(附属建物も含む)を三、四二〇円の経費を要して、三十五年四月起工、同年九月落成し、九月六日開校を喜び合った。両校の名を取り鍛神小学校と称することになった。初代校長は留目政治である。因藤徹也は神山学校創立当時より、苦難の多い単級校に二十三年間奉職、統合するまで、学校教育創始期より努力した。まことに神山村にとって功労多大な教師であった。
 次に統合後の数年間の同校の状況を概観する。
 
  一 高等科併置と増築
 高等科併置は明治三十四年十二月二十六日に認可、高等科修業年限二か年と指定された。同四十一年四月一日小学校令改正の結果高等科を廃止し、鍛神尋常小学校と改称した。明治四十一年十月十七日増築落成して、教育施設が充実するようになった。
 
  二 高等科廃止に関する建議案
 明治三十五年六月二十三日の亀田村会議録(最初の村議会)によると、鍛神小学校の高等科廃止に関する建議案を審議した。議会において、廃止賛成と延期説があり、多数の意見として延期することに決定した。高等科を併置することによって学校教育の充実を期待されるはずなのに、当時は廃止を検討する状態であった。
 
  三 農業補習学校併置
 明治三十八年五月十三日、鍛神小学校に農業補習学校を併置した。これは補習教育のおこりともいうべきことであり、以後長い間亀田村では同校だけに併置が続いた。当時他村では、鶴岡、札苅、泉沢、石別、大中山、峠下、軍川の実業補習学校があったに過ぎなかった。