学校を中心とした動き

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 学校は部落における中心的な存在であって、子どもたちの教育の場であると同時に、現在の公民館、町内会館などの役割を果していた。従って、大人の教育の場でもあった。この習慣は今日に至るまで持続されているところである。明治二十二年一月十五日(函館新聞)
 
  「当村亀田小学校訓導棟方正勝氏の発企にて去年暮れ村内有志と協議し、学校内に夜学を開設し、村内子弟へ和洋二学を教授し、入学漸く多きを加え、目下百名ちかき就学者ありという。」
 
 これは夜学による教育を実施して、相当の成績をおさめていたものと思われる。また、明治二十一年桔梗小学校(当時変則小学校)に温習生の制度があり、変則小学校を卒業した後、更に温習生として学習する機会が与えられていた。
 明治三十五年、鍛神小学校に実業補習学校が設置されて、補習教育の基礎が築かれるようになった。これらは義務教育終了後、社会人として必要な知識技能の習得を目的としたものである。