近江新三郎
明治三十五年四月十九日、赤川村に生まれた。赤川小学校、松風小学校の高等科に学び、函館中学校(現中部高校)を卒業後、一年志願兵として函館重砲隊に入隊、その後、家業の農業を手伝っていたが、昭和五年二八歳の年に、中島有郷村長に見込まれて亀田村収入役に就任した。
昭和九年収入役に再任、昭和十三年八月助役、昭和十七年八月村長となり大政翼賛会会長、在郷軍人会の分会長も兼ね、銃後の守りをかためる一方、農業の振興などに尽力した。
しかし、任期半ばの昭和十九年二月召集となり旭川へ入隊、陸軍中尉として鹿児島で終戦を迎えた。戦後公職追放となったが、昭和三十年村政に復帰した。戦前自分の下で助役をつとめていて戦後同じく公職追放にあった後閑職に甘んじていた、樋口藤吉を再度助役に迎え、ふくれあがる人口対策に追われながらも、村営住宅の建設、亀田小、鍛神小、亀田中、桐花中、亀田高各校の増改築、昭和小の新設、母と子の家、公民館、青年研修所の新築、上水道事業、中の沢簡易水道の完成、村道赤川函館線の道道昇格、国道、道道の舗装工事を働きかけ、赤川通りに道警運転免許試験場を誘致した。昭和三十七年には町制を施行し、初代町長に就任した。
氏は酒豪であったが、礼儀を重んじて謹厳実直、口数は少ないが、部下に対する思いやりに富んでいた。
函館市から合併の話があっても「水は欲しいが合併はしたくない。」と最後まで自説を曲げなかった。
昭和四十二年町長選に敗れた。前年肝臓ガンで亡くなった樋口藤吉の葬儀委員長をつとめたが、そのあとを追うように同じ病に倒れて九月九日、六五歳で死去した。