樋口藤吉

304 ~ 304 / 1205ページ

樋口藤吉

 明治三十五年四月二十六日、七飯村に生まれた。
 一六歳で七飯村役場に臨時雇として入り、翌大正八年七月に亀田村役場書記に転任、その後大正十一年四月亀田村農会の書記および幹事、昭和十五年七月亀田村商工組合書記などを兼任した。
 昭和十七年八月、四〇歳で助役に就任、昭和十九年二月近江村長が召集された後は約一年間村長代理を務め、昭和二十年二月村長に就任した。村長就任と同時に、亀田村教育会会長、亀田村青年団長、亀田村青年学校後援会総裁、道南畜産組合亀田村支部長を兼任し、七月には実際活動はしなかったが亀田村国民義勇隊隊長となった。
 しかし約半年で終戦、兼任していた翼賛会亀田村支部長の肩書がもとで公職追放にあい、二十一年十一月三日村長を辞職した。このように村長在任期間は短かかったが、終戦間際の臨戦体制の確立、食糧確保などに追われた。
 役場の近くの公宅に住んでいたとき、むしろ旗をかかげ、食糧配給を叫ぶ村民に「米びつを見せろ。」といわれたが、村長の家の米びつもからっぽであったし、ヤミ米を買うなど曲がったことは絶対しない人であったので、赤川飛行場にわずかの土地を借り、夫人が薯をまいて食糧の足しにしたという。
 公職追放後、二十二年三月亀田村森林組合嘱託などをしていたが、昭和三十年近江新三郎元村長が返り咲くや、再度助役に迎えられ、村営住宅の建設、東山分校の開校、鍛神小の増築、七五郎沢ダムの完成など民生、教育、産業の振興に敏腕をふるった。しかし四年目ころから健康を害し、やがて退職、昭和四十一年四月十四日六三歳で病没した。