吉田政雄
明治三十七年一月八日、十勝に生まれた。昭和二年函館師範学校専攻科を卒業し、釧路市第二小学校訓導、昭和三年には亀田小学校訓導と函館師範学校訓導を兼ね、昭和十六年亀田国民学校教頭、ついで函館市立高盛小学校教諭、昭和二十五年函館市視学、昭和二十六年函館市教育課長、昭和二十七年函館市教育長を歴任し、昭和三十六年函館市立中央中学校長、昭和三十八年永年にわたった教職生活にピリオドを打った。
昭和四十二年亀田町長に当選、革新町政を標榜し、町政刷新に努力した。
とりわけ教育と住民の福祉の向上に努めた。亀田小、昭和小、鍛神小、亀田中の増築、本通小の新築、亀田高校と函館商業高校の統合、北海道教育大附属函館小中学校の函館市よりの移転、昭和小や亀田中の屋内体育館新築、昭和小、鍛神小、亀田小、桐花中のプール新設のほか児童館、赤川通保育所、福祉センター、港福祉会館、母子健康センター、青少年会館の新設、亀田町町民交通傷害保険制度の発足、騒音規制法適用、救急業務開始、老人と乳幼児の医療費無料化などを実施した。
昭和四十六年十一月市制を施行し、昭和四十八年の合併まで最初にして最後の亀田市長となり、市のシンボルツリー「ねむの木」の決定、亀田市民憲章の制定、太陽と縁がいっぱいの住み良い市をめざしたが、これ以上の市の発展は函館市との合併により達成できるであろうと考え、幾多の難関を越えて合併実現のため熱意を傾け、昭和四十八年十二月一日函館市と合併させ身を引いた。