大正から昭和のはじめにかけては、「水苗代」といって、はだかの苗代に水を張り、八十八夜(五月一日-二日)ころにそこに種もみをじかにまいた。もみをまくには、はだしのまま水苗代に入らなければならず、まだ水が冷たい時期で大変な仕事であった。
播いた種もみは水が冷たいので容易に発芽せず、そのうちにかびが生えて種もみが腐ってしまったり、みみずが出てきて、種もみに泥をかぶせてしまうので、発芽率は悪かった。
昭和十数年ころになって温床障子やガラス温床が出始めた。しかし資金のない者は大抵油紙をはった温床障子を使っていた。これらを使うと苗代内の気温がとても高くなるので早く発芽するが、慣れないうちは中の気温の調節や通風の管理が大変むずかしく、日焼けさせてしまうことがよくあった。
米づくりに欠かせないものに田起こしがある。馬にプラウを引かせて田起こしをする以前は三本ぐわを使って、人の力で田起こしをしていた。田の土に赤土などが混ざっている場合は田の土が特に固まっていて、起こすのに大変苦労した。従って一人平均一日に一反歩も起こせばよい方で、よく手にまめをこしらえたという。
その後三本ぐわに代って片プラウが登場するが、畑の両起こしと違って馬はあまり疲れず、深く起こすことができた。この深耕することによって肥料分が土中深く入って行くので、人の力で起こしていた時より収量は増えた。
肥料は元肥として堆肥を多く使っていたが、人によっては人糞も使用し、それにカリ肥料や硫安なども混ぜて使用した者もあった。
しかし近代化されたとはいえ、馬にプラウを引かせても田の端や隅の方はどうしても耕しきれずに残ってしまうので、そこだけは三本ぐわで起こした。土を起こしたあとは、馬にハローを引かせて土を砕いたが、これには大きな爪がついていたので「鬼ハロー」と呼ばれていた。
こうした作業の後は田に水を入れ、代かき用のすき(馬ぐわ)を馬に引かせて、更に土を砕き、どろどろにしながら水平にして行き、更に幅一五センチ、長さ二メートルほどの板に柄をつけたエンブリで泥を水平にしていく。この作業で田植えの準備が終わる。
田植えは六月十日から二十日ころまでに終えた。現在より約ひと月もおそいのは、苗の成育が悪かったためである。
苗取りの際は、苗代に水を張って取ったので、腕はひじまでぬれ、足はひざまでぬかった。当時は満足にゴム手袋や長靴がなかったから、水の冷たさとの戦いであった。かじかんで動かなくなった手足を暖めるために、田のまわりに火をたき、酒を飲んでは体を暖めたものである。
苗を植え付ける方法は時代と共に変遷した。
はじめは、田植えをする人数分だけ、田に縦に縄を張った。その間にひとりずつ入って、田植えをした。
やがて、縄に代わって登場したのが「すじだて」で、これは、一枚の板に数本の棒を打ちつけたものである。これを引いて歩いて、どろどろにした田の表面に縦だけのすじをつけるのである。
すじだての次に現われたのは「かたおき」と呼ばれ、人が手でころがしながら、田に十文字の印をつけていく円筒型の農具である。ごろごろ回していくから「まわりかた」とも呼ばれた。
このように、田んぼに苗をきちんと植え付けていくのは、除草機を入れるためである。除草機には爪がついていて、人が押して歩くと、その爪が回転し、回転するごとに雑草が土中にうずめられてしまう。それと同時に土中の肥料分も上下のものが交替する。
除草機には、一連のものと二連のものがあり、体力のある人は二連のものを使用した。この手押しの除草機がないころには、素手で田をかきまわして草を取っていた。
田植えが済んで二十日くらいすぎると一番草を取らなければならなかった。それから十日ごとに二番草、三番草を取った。一日中田んぼの中を両手でかきまわして歩くので腰も痛くなり、指先から血がふき出したという。
こうして秋の稲刈り、脱穀を迎えるのであるが、反当り収穫高は、普通の田で三俵から三俵半、上田で五、六俵くらいのものであった。現在の七-八俵からみるとずい分少ないものであった。
鎌で刈り取った稲は一〇束ずつ束ね、穂を上に向けて乾燥させる「しまだて」、中を空洞にしながらつみ上げていく「かまによ」などの方法によって稲をよく干す。乾燥した稲は脱穀作業に回される。
大正時代には「千歯ごき」を使って脱穀していたが、昭和に入ってから足ぶみ脱穀機が登場し、脱穀も楽になった。