死者一三名、床上浸水四、五〇七戸、床下浸水五、六六五戸、流失家屋一二戸、倒壊家屋七三戸、道路決壊五三六箇所、橋梁流失破損四四四箇所、護岸決壊六六〇箇所、灌漑溝一、一六〇箇所、農耕地被害面積総計九万六、七八〇町歩-一一万五、六〇〇町歩であった。
水害による農作物の被害額は一、五〇〇万円、稲作の損害額は実に六、五〇〇万円以上に達した。稲作は稲熱病、螟(めい)虫、菌核病などが発生、蔓延(まんえん)して家畜の飼料にもならないほど米の成熟が悪かった。
道内の作柄は、九九万一、五五〇石(九月二十日の予想収穫高)で、前年より一、八八八、九九七石(六割六分)の減収である。
反当収穫高については、全道平均が一反歩当り五斗九合に過ぎず、これを前年と比較すれば一石二升すなわち六割七分、前五か年平均と比較すれば九斗六合、すなわち六割四分の減収に当る。
当時の新聞によれば、「大正二年反当収量七升七合の大凶作に比すればやや良好なるも之を除けば既往四十か年間に於て比類なき凶作というべし」と連日のように報道している。