馬鈴薯の品種は世界に二千余種あるといわれているが、明治時代に入って、北海道開拓使によって、さまざまな種類が輸入され、試験栽培された。北海道に導入された品種数は三百を越えると推定されている。
馬鈴薯は移入当初自給用食糧として栽培された。その後、安政年間には外国船へ供給するために奨励され、やがては漁業者の米節約法として注目された。更には無水酒精の原料、他府県の種子用としての需要など、時代の要請と品種改良の技術的進歩とによって馬鈴薯の品種はさまざまに変化して行った。全道の生産高については、特に大正三年に始まる第一次世界大戦による西欧の澱粉生産能力の低下、国内の一般経済界の好景気によって馬鈴薯澱粉生産は急上昇し、西欧市場へ年間一八一万袋から二〇〇万袋も輸出したいわゆる澱粉黄金時代を築いた。それによって全道の作付面積、生産量ともに漸次増加していった。
しかし、この好景気も西欧の澱粉製造の立ち直りによってそう長くは続かなかった。良質で安価な西欧の澱粉によって、外国市場から締め出されたばかりでなく、それが日本にも上陸し、本道の馬鈴薯生産、澱粉業界は大きな打撃をこうむった。そのため馬鈴薯は、澱粉用だけではなく、生食蔬菜用、種子用として活路を見出さなければならなくなった。