七飯村の農場で男爵薯を栽培していた川田男爵から、たまたま試作のために七飯村鳴川の成田惣次郎という者が分譲を受けた品種が、極めて早熟で、粒ぞろいよく、収量も多く、品質良好であったので、たちまち近所の評判になったという。桔梗の農民もそのうわさを聞きつけて、成田惣次郎のところへ種子薯をわけてもらいに行った。亀田村でも、桔梗方面がいち早く男爵薯の栽培を始めたのも距離的に近かったためである。
やがて全村に普及し、大正十年ころより漸次増殖され、大正十五年には、すでに三六〇町歩の作付面積を数えるに至った。当時の男爵薯は今の男爵薯と違っていて、収量も非常に多く、小さなかぼちゃくらいもあるようなものまでとれたので、農民たちは男爵薯のことを「ブタイモ」と呼んでいた。このように名称も味の方もあまり良くなかったので、そのころは函館市民の人気もわかず、専ら澱粉用に回されていた。しかし、煮くずれしないので、本州では、重宝がられ、東京、横浜、神戸などの貿易港へ持っていくとよく売れたという。