戦時中は、収穫した薯の九割位は供出しなければならなかった。
国では供出薯一〇俵に対し、その見返りとして農家に米一俵ずつくれた。当時、米作農家は統制令によって、作った米のうち自家用を残して、あとは全部供出していたのに反し、薯作農家の方は、米には不自由しなかったという。
しかし、昭和二十年の冷害では米は平年の六分作以下であったので、亀田の農家でも米不足に悩まされた。主食の米に代わって、代用食という呼び方で薯が重要な食物になった。
調理法は、小さくきざんで米と一緒に炊いたり、そのままゆでた塩煮、澱粉と一緒にこねたいもだんごをフライパンに油をひいて焼き上げたもの、煮た薯をそのまますりばちでつぶし、こねた薯餅など戦時中の食糧難をこの薯で切り抜けたのである。