嘉兵衛馬

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 赤川の工藤嘉兵衛(先代)は和種である道産馬を改良して、すぐれた農耕馬を作ろうと考えた。
 明治時代、赤川は林業が盛んであったので、道産馬が他の地区より多く飼育されていた。彼はこの手近にいる道産馬にトロッター(中間種)、アングロノルマン(中間種)、サラブレッド(軽種)などを何度かかけ合わせて、勘の強い、力の強い、気性の荒い独特な農耕馬を作りあげた。その年代は明らかではないが、明治三十年ころのことである。この独特な最も農耕馬に適した馬を村人は「嘉兵衛馬」と呼んで、たくさんの人たちが買った。フランス産のペルシュロンもかけ合わせたが、図体が大きく、動作も遅く失敗したという。彼の牧場は鹿部村の雨鱒川から駒見にかけての約五五〇町歩で、山あり、川ありで、アカシヤ、白かば、ぶなの木も生えており、この五五〇町歩のうちに約二〇〇町歩の山林があった。
 ここに土手を築き、まわりにアカシヤを植え、有刺鉄線を張り巡らした牧場であったが、別に牧草も植えていなかったので、えさがなくなると徒党を組んだ馬の群れが、赤川、中野、石川、桔梗方面の畑を荒し、随分苦情をいわれたという。多い時で約一三〇頭の馬が放牧されていた。馬車もろくに引張らないなまけものの馬を「ジャミ馬」と呼ぶが、嘉兵衛馬には一頭もこの「ジャミ馬」はいなかったという。
 この五五〇町歩の大牧場も昭和四年六月の駒ケ岳の大噴火によって全滅し、それから馬の放牧をやめてしまった。「口のついたもの(動物)でもうけた人はいない」と亀田でいわれるが、生き物相手の畜産のむずかしさの一例でもある。