振わない乳牛飼育

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 このように道のかけ声にもかかわらず、亀田村での乳牛頭数や飼育戸数が伸びなやんだ原因には次の諸点があげられる。
 
○牛の飼育に不慣れであったこと
 馬の飼育には親の代から慣れていたが、牛の管理、特に牛の生理はよくわからなかった。大正年間には、牛乳の処理能力が一定であったので、毎日の出荷乳量がおおよそ決められていた。たくさんの牛を飼育している農家では、乳量を調節するために四季を通して子牛を産ませるようにしなければならない。しかし、牛は栄養不足になっても、栄養過多になっても不妊症になってしまうやっかいな家畜である。妊娠しない牛は、期待していた子牛はとれず乳量は上がらずで、農家にとっては経済的に大打撃であった。
 
○乾草づくりが面倒であったこと。
 道南の梅雨時に牧草の一番刈りをしなければならない。牧草は一日では干せないので、どうしても二、三日は天日に当てて乾燥させなければならない。そのうちに一度でも牧草が雨にあたってしまうと草の品質が下がってしまう。また、夏の間はどうしても高温多湿になるので、乾草の中までかびが生えてしまう。労働力不足のために、秋に時期をおくらせて、牧草が枯れ始めてから刈り取ることもしばしばあったが、草が枯れ始めると、それだけ栄養価が低下してしまう。
 
○手間がかかったこと。
 牛に牧草を食べさせるために、一日中、牛追いをしたり、足りなければ草を刈ってこなければならない。牛舎では下わらを捨てて、新しいわらを敷いてやらなければならず、朝と夕方には搾乳しなければならない。また暖かくなると、牛乳が腐敗しないように、つめたい井戸水を汲みあげては冷やさなければならないなど、牛を飼っていれば、朝から晩まで体を休める暇がなかった。
 
○放牧場が少なかったこと。
 昭和六年の記録によると、亀田村には約一、一〇〇頭の牛と一二八頭の乳牛が飼育されていた。亀田村としては、馬のために一、一八四町歩の放牧場と、牛のために三九二町歩、合わせて一、五七六町歩の放牧場が必要であると計算されていた。
 しかし、同年の亀田村における放牧採草地面積は二〇〇町歩足らずで、実に一、三七六町歩の放牧場が不足であった。
 従って農耕、運搬用になくてはならない馬に与える牧草でさえ充分に確保することができなかったから、まして、牛の分までは、とうていむりであった。
 昭和十二年になって、亀田村会でも、「字東山、陣川村有地ヲ基本トシ付近民有地ヲ併セ放牧場設置ハ本村畜産奨励上必要欠クベカラザル事項ニシテ村有地ニ対シテハ其ノ目的変更ヲ北海道庁長官ニ申請中ニ付許可ヲ俟ッテ更ニ牧野改良事業施行補助申請ヲ行ヒ工事ヲ施行セントスルモノナリ」と決議し、村役場でも放牧場設置のために腰を上げた。