純系の牛馬を飼育増殖していた桔梗の園田牧場が中心になって、事務所を同牧場に置く、「亀田郡産牛馬畜産組合」を結成した。組合長には、園田牧場主である園田実徳の実弟武彦七が決定した。この組合の範囲は亀田村を中心に、函館市、湯川村、七飯村、大野村などの九市町村であった。組合には獣医もいて家畜の診療、牛馬の生産指導、共進会の開催、牛の貸付などの業務を行っていた。
当時は馬より牛の値段がやや高く、大正五年から大正八年までに、一一〇円から、一五〇円、一六五円、二〇〇円と値上がりしていったが、一般農家がおいそれと手に入れる価格ではなかった。そこで組合では、「組合員ハ其生産シタル犢(コウシ)駒ニシテ犢ハ十ケ月乃至十八ケ月ニ達シタルトキ、駒ハ明ケ二歳ニ達シタルトキハ之ヲ組合ノ開設スル家畜市場ニ牽付ケ売払又ハ評価ヲ受クルモノトス」という規定のもとに、二人の保証人をつけ、親牛を貸付けた。貸付料は大正九年には二四円五〇銭であり、組合では手数料としてこの百分の三を徴収した。借りた牛はやがて時期がくれば、また園田牧場へ連れて行き受精させたが、種付料は当時五円であった。その母牛が雌の子牛を産むと、やがて母牛をもらえて、子牛を返すという決まりであった。だが、雄の子牛が生まれた場合は、一週間位育てて、種付料より少し高い五円五十銭という値段ですぐ肉屋に売ってしまった。