牛乳

407 ~ 408 / 1205ページ

園田牧場の牛群

 亀田では「わらをも食う牛」と評判の良かったエアシャー種に代って、オランダ原産で主に米国で改良されたといわれる乳牛の王ホルスタイン種が王座を占めた。ホルスタイン種の乳脂は三パーセント内外であまり濃くないから飲用牛乳やチーズ製造に適しており、年平均四トンから五トン、中には一〇トンを越すものもあった。亀田村の牛乳生産高は次のとおりである。
 
大正四年 四一四石、大正五年 五一五石、大正六年 五一五石、大正七年 三六八石、大正八年 三六八石、大正一〇年 五四八石、大正一一年 五一九石、大正一二年 四九八石 大正一三年 五三五石、大正一四年 六三三石、昭和三年 六五八石、昭和九年 九四八石昭和一〇年 九五六石、昭和一一年 九九〇石、昭和一二年 一、〇一六石、昭和一三年 一、二九七石、昭和一四年 一、三二〇石
 
 また、昭和九年に例をとる搾乳高九四八石の内訳は次のとおりである。
 
 園田牧場 三〇頭 二六三石五斗七升、菊谷兼松 一二頭 一二〇石、横山毅夫 一五頭 一九九石七斗二升、伊藤長一郎 五頭 五五石、田原勇次郎 八頭 一二〇石、西村菊松 一〇頭 一四〇石、その他 一〇頭 五〇石、合計 九〇頭 九四八石二斗九升
 
 放牧場の青草や道端の雑草だけでは乳量が増えないので、農家では、豆腐かす、飴かす、くず豆などを食べさせた。牛乳のコストはさほど高くはなかったが、農産物としては良い方であったし、何よりも現金収入が魅力であった。昭和八年設立されたミルクプラントが同九年一月から操業するようになってからは、同所へ牛乳を売るようになった。それ以前は園田牧場に持って行って、一緒に「函館牛乳」として売りさばいてもらったり、帝国製菓工場の原料乳として売っていた。
 昭和二年から八年ころにかけては凶作のため不景気な時代が続き、牛屋がふえ、牛乳が余って困ったという。