兎については大正六年の亀田村農林統計に生産数一五〇羽という記載がわずかにあるのみで、昭和十二年まで皆無であるところをみるとあまり重視されていなかったのか、数が少なかったためであろう。古老の話によれば、子どもたちのペットとして飼われたり、老人の暇つぶしの相手をしていたようである。冬になれば防寒用に毛皮をとり、肉は鍋料理に使ったという。しかし、昭和十三年の記録では、飼育数一〇羽未満が一七二戸、一〇羽以上五〇羽未満が五六戸、飼育数の合計は八三七羽におよんでおり、売買単価は一円二〇銭であった。これは昭和十二年、日支事変の勃(ぼっ)発によって、北支那、満州戦線の日本軍兵士防寒用具として、兎の毛皮の供出要請が軍から出されたためである。毛皮用と毛用両種類の兎が飼育され、兎肉も軍用食料として買い上げられた。昭和十七年には兎毛皮二八七枚を供出して三五〇円(単価一円二二銭)、兎肉は一二〇貫で四九八円(単価四円一五銭)を得たが、昭和十九年には兎毛皮の供出はわずか八二枚であった。昭和十三年にあれほど飼育され始めた兎も、昭和十九年には成兎三四六羽、子兎九七羽、飼育戸数も五六戸減少して一七二戸となった。この原因は、値段が安くて採算がとれなかったことと、当時は野犬の被害が大きかったためである。ある地区では、「野犬の被害のために飼育皆無」と報告してきた調査員もいたほどであった。