家の近くに池や沼がある農家ではあひるを飼育していた。羽数がいちばん多かったのは、昭和十四年の一九一羽、次いで十五年の八六羽で、このころがピークであった。だがそのほとんどが一〇羽未満の飼育家庭で、卵は自家用にしていた。
山羊は昭和十二年に二戸二頭、同十三年には一戸一頭という記録しかないが、終戦前後には相当飼育されていた。綿羊は大正五、六、七、八年にそれぞれ、三九、一六、一一、一〇頭ずつ生産されたという記録しか残っていないが、わずかではあるが、綿羊を飼育し、その毛を刈り取って、毛皮と交換したという。
亀田村を畜産の窓からのぞいてみると、次のような光景が想像される。
大抵の農家に馬小屋があり、畑では体格の良い馬がプラウを引き引き耕作に励んでいる。でこぼこ道を金輪馬車がガタゴト荷物を運んでいる。家のまわりでは鶏が餌をついばみ、あひるは池に浮いている。遠くの原っぱでは、どこかの牛が草をはんでいる。