近江新三郎

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 (文化七年十一月十九日生)
      亀田村大字赤川村字山下二七四番地
 
 亡父新三郎のころから山に多少杉の植樹を行っていた。
 明治五年家督相続後、年々五、〇〇〇本から一万本の植樹を継続して行い、明治二十四年と同四十一年に売却したものをのぞき、明治四十五年には杉の成木で尺回り前後のもの六、〇〇〇本、三尺回りのもの一、〇〇〇本、また、高さ五尺前後のもの五、〇〇〇本を有していた。
 また同時に三〇〇坪の苗圃を仕立て、苗は四年目ごとに移植していた。また苗圃のまわりや内部は風よけの簀(す)垣をつくって苗を育てた。
 このように林産経営に力を入れたばかりでなく部落の人々にも造林事業の必要を説き、指導したから造林事業は赤川地区全域に普及し、明治末から大正にかけて赤川村に歩を運べば欝蒼(うっそう)たる森林を見ることができたという。
 その功績も実は氏に負うところが大であった。明治四十三年九月二十六日死去した。