[精米場]
このころの精米場はすべて水車の力によっていたが、これら精米場の推移をみると、大正十年ころからだんだん廃業していくものが増え、昭和二十年には次の二箇所になってしまった。
亀田村農業会精穀利用工場 これは昭和町一七〇番地にあって、亀田村農業会で経営していたものである。
同工場の昭和二十年の実績は、精米一〇、一八二俵、四、四〇六円、作業日数は三三七日であった。
横田精穀工場 赤川通四三番地にあった。横田武の経営によるもので、昭和二十年精米高五、〇〇〇俵、二、五〇〇円、作業日数は三〇〇日であった。