乳肉

443 ~ 444 / 1205ページ

カール・レイモン

 現在も函館市元町で食肉加工業を営んでいるカール・レイモンが、東洋の小国ながら独立国として西洋の列強と互角に渡り合っていたサムライ・ニッポンに興味を持ち、それまで働いていたシカゴの食肉加工場をやめて来日したのは、大正八年のことであった。
 彼は東京やカムチヤツカなどでハム・ソーセージやかんづめの指導をした後、大正十四年に函館駅前へ、十二坪の小さな工場を建ててハム・ソーセージを作りはじめた。その四、五年後、牛や豚の飼育に便利な亀田村字本町(現雪印乳業のある場所)に、一、五〇〇坪の土地を借りて、二棟の畜舎と、一〇〇坪の食肉加工場と住宅を建てた。畜舎では、二〇〇頭の豚、一五頭の牛、五〇頭の綿羊が飼育され、飼料は近くの農家からくずいも、精米場からは米ぬかなどを買い、骨のスープで煮て与えたという。
 ハム・ソーセージの原料になる豚肉は自家飼育だけでは間に合わなかったので、近くの農家に子豚を分譲し、親豚になった時に買い取る方法をとっていたが、農家でもそのころは堆肥を手に入れるため、豚の飼育頭数をふやしていった。
 しかし、このころ、札幌酪連が函館進出を計画していた。すなわち、函館市付近の原料牛乳統制と市乳事業の準備に取りかかっていたのである。当時すでに人口約二〇万人、牛乳の一大消費地であった函館市の場合、数多くの市乳業者が乱立して小規模経営を行っていた。
 だが、札幌市では一本五銭であるのに対し、函館の場合七―八銭という高価な牛乳を飲まされていたため消費者からは不満の声もあがっており、道庁、函館市当局も酪連の進出を切望していた。はじめ進出反対を表明していた地元業者を納得させ、昭和八年、酪連はカール・レイモンの食肉加工場を、土地、住宅つきで買収し、そこに近代的な設備をほこる「函館ミルクプラント」を建設し、レイモンはその後大野村へ移っていった。

函館ミルクプラント

 この工場は機械化をはかり、わずか二五名の従業員が殺菌、冷却、壜洗滌、壜詰などを行うという方法で、月三〇〇石の市乳のほか、バター、アイスクリームなどを生産した。こうした状況から亀田村の酪農家たちも、それまで園田牧場や製菓会社に売っていた牛乳をミルクプラントヘ売るようになった。
 バターとアイスクリームの生産高は次のとおりである。

[バター・アイスクリーム生産高]