函館師範学校は大正三年に開設されたが、財政上の関係もあって、附属小学校の設置が遅れていたので、函館師範学校和田喜八郎が函館区亀田小学校と亀田村亀田小学校を附属代用校とすることを考え、函館区長と亀田村長志水平五郎とそれぞれ協議し、大正五(一九一六)年十二月、文部大臣の許可を得て、翌六年四月一日使用を開始することになった。
教授、訓練一切は師範学校長が中心となり、訓導の給与、旅費などは師範学校において負担することとし、施設費、設備費、需用費などは亀田村において支出することにした。当時の亀田尋常高等小学校は五学級(学校長小木保太郎)児童二六八名の小規模校であったが、その後児童数が次第に増加し、大正七年には七学級となった。師範学校において教員の給与を全体的に負担したのは、最初のうちであって、昭和三年の村議会において「亀田小学校契約更新の件」を可決したころは教員給与四名分を師範学校費より支出することとし、ほかは亀田村において負担することになった。従って教員は同条件の勤務でありながら、四名は函館師範学校訓導兼亀田小学校訓導、他は亀田小学校訓導兼函館師範学校訓導という辞令面の違いはあったが、学校経営上はすべて同一であり、形式的な面には無関係で教育内容の充実発展に当った。
当時函館区亀田小学校と亀田村亀田小学校が同時に代用附属校となった関係上、前者を第一附属、後者を第二附属と呼ばれるようになり、長年にわたって、その名称が親近感をもって教育界に残っていた。特に函館区亀田小学校は亀田村亀田小学校の前身でもあり、兄弟的な関係でもあった。第二附属のほか山の附属とも呼ばれていた。
代用附属校となってからの亀田小学校は、長年の間、数多くの教育実習生の指導に当るとともに、その研究実践が本道の教育進展に影響を与え、貢献するところが多大であった。