昭和十二年の蘆溝(ろこう)橋事件以来、同二十年の終戦に至るまでの教育は、小学校を国民学校(昭和十六年)と名称変更が証明しているように、皇民錬成、銃後戦時体制の維持強化のため全力を傾注した期間であった。
同十三年に発足した恩賜財団軍人援護会が基礎となり、同十五年「軍人援護教育要綱」が制定され、軍人援護教育が推進されることになった。
北海道においては、軍人援護教育研究指定校として、札幌師範附属、旭川市中央、幕別、興部および亀田各国民学校が、助成金二〇〇円を受けて研究に努力した。亀田国民学校は同二十年七月には軍人援護教育推進学校となったが、その間研究会を開催して、その実践を紹介した。
村内各国民学校も同様に敬神崇祖の念並びに天皇現人神の信仰を強固にし、「承詔必謹」の態度を第一義とした。皇道の振起、日本武士道精神の体得を念願とし、国民錬成の道場としての学校経営、学級経営に当った。大詔奉戴日の詔書奉読、宮城遙拝、奉安殿、神殿拝礼、神社参拝、御製朗読、誓詞斉唱など日常生活の一切は滅私奉公、神国日本への忠誠を至上とした。