公衆衛生機関

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 隔離病舎のほかはこれといった公衆衛生施設もなかった。しかし、明治三十一年十二月衛生組合設置規程の発布二年後の明治三十三年三月、亀田村にも前ぺージの表のような衛生組合がつくられた。

[衛生組合]

 この衛生組合は現在の保健所と似た業務を行っていた。組合の運営費は役場の補助もなく、組合費のみで事業を進めていた。主な事業は春期と秋期の大掃除の奨励、実施、検査や種痘の実施、トラホームの検診などであった。
 大正年間の組合の概況は次のとおりである。

[大正年間、衛生組合概況]

 衛生組合が尽力した種痘接種とトラホーム検診の結果は次のとおりである。

種痘接種


トラホーム検診

 このころ、各小学校でも医師による検診を実施し、教師が患者児童の洗眼を行った。
 明治三十六年亀田村衛生組合長に選出された茨城県出身の大久保利助は、衛生功労者として大正五年三月に北海道庁長官の俵孫一から表彰されている。大久保利助は、組合長になってからも村内の衛生状態をよく視察し、その幼稚であることを憂慮し、一般に衛生思想の普及啓発のため毎年講師を呼んで講話会を開催した。また村内に伝染病患者が発生すれば、そこの家へみずから出向き、隔離消毒などに努めたり、貧困家庭には経済的な援助も行った。特に大正三年、村内に発疹チフスが大流行した際には日夜熱心に流行区域を巡視し、予防活動に力を入れたのでその蔓(まん)延を防ぐことができたという。