診療の実態

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 昭和二十一年北支から桔梗一九九番地に引揚げ、同所で開業した吉田三郎医師(現赤川通町で開業)の話によると、当時の村民の保健衛生意識は次のようなものであった。(吉田医師は昭和二十四年亀田本町二八番地、現在のスズキ自動車の場所で移転開業した。)
 当時、大人の病気といえば結核、子どもの病気は消化不良が多かった。これは食事の内容が悪く、幼児にもたくあんを食べさせることにも原因があった。
 当時は今より患者は多かったのであろうが、あまり病院の門をたたかなかった。それは衛生知識の欠除というより、経済的原因によるところが大きかった。現在のように健康保険もない時代であったから、まず年寄りは通院を遠慮し、子どもが病気にかかっても姑(しゅうとめ)が許可して嫁に病院代を渡さなければ病院に行けない。従って応診してみると既に発病してから一か月以上もたった患者に出会ったり、臨終に間に合わなかったりしたこともしばしばあったという。
 自分の実家からもらったお金でこっそり病院に来る嫁もおり、今では笑い話になるような次のようなこともあったという。
 ある患者を診察して四、五回目になると、「先生、この病気は治りますか。」とたずねる。「治る。」と答えると、「治るんであれば、明日からはもうこなくてもいいね。」といったという。また中には、「先生は診断が大事だというけれど、わたしは見たての方がもっと大事だと思う。」と真剣な顔でいった人もいたという。
 重病人が発生したりすると本人のために病気を治してあげるというよりも、死ぬまでに一回でも病院にみせないと世間体が悪いといって、病人を馬車や馬そりで運んで来たという。