赤川巡査駐在所
明治十三年ころ、今の赤川町は亀田郡赤川村と呼ばれ、戸数は一〇〇戸ほどの部落であった。同年赤川小学校が建てられ、年々戸数も増加し、他町村からの転入者、旅人などの出入りも増えるに従って、自然犯罪の多発も予想された。
それに加えて本署から遠隔の地にあるので、何か事件が起こった場合、村民の不便はいうにおよばず、不安な生活を送らなければならなかった。
従って巡査駐在所設置の気運が村民の間に台頭したために、翌明治十四年、七飯警察署亀田分署赤川巡査駐在所として設置された。初代駐在所巡査は村上長幸であった。はじめの建物は明治十四年、当時の亀田村大字赤川村(赤川小学校敷地内、旧御真影奉安所のあった所)に、坪数は不詳であるが草葺の平家建で極く小さい小屋のようなものを建てて駐在所とした。
明治二十一年六月、当時寺子屋程度の大きさであった赤川小学校改築に際し、取り壊した古材をそのまま使用し、赤川三四五番地に木造亜鉛板葺平家建一二坪五合を、工費二五〇円で移築した。
同三十五年四月一日、旧赤川村より亀田村有財産として亀田村役場に寄付され、以来四〇有余年同番地に在ったが、その後管轄内の発展と周囲の情勢により、駐在所を中心地点の神山へ移転すべしとの声が神山住民の間に高まった。しかし、赤川の住民は水道貯水池の存する重要性を主張して譲らず、結局その中間点である神山・赤川の境界となる赤川四〇番地へ、昭和九年一月、工費一、一〇〇円を投じ、木造亜鉛板葺平屋建二三坪五合の駐在所を新築移転した。初期のころの巡査は次のとおりである。
昭和九年 古閑広見巡査 高橋巡査 菊池政男巡査
昭和二十五年 小石豊蔵巡査 昭和二十七年 高崎巡査
また大正時代から昭和九年までの赤川駐在所扱いの重大事件は次のとおりである。
大正二年三月 放火未遂事件 大正四年十月 放火事件
大正六年四月 殺人事件 大正七年六月 傷害事件
大正十二年八月 放火殺人未遂事件 大正十五年一月 傷害致死事件
昭和五年十月 強盗殺人事件 昭和六年四月 殺人事件
昭和七年三月 強盗事件 昭和八年十二月 強盗事件 以上の事件はいずれも犯人を検挙し解決した。