林産奨励

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 維新前の村の林産状況の一端をみると、現在も村に残る古い家屋の重量に富む用材は、全部郷土の山から切り出されたものにほかならない。特に長尺かつ分厚な「かつら」の梁材に至っては、文化財としての価値が充分にみられる。家屋材を取り、大木を切り出した残りの中木材は、薪材として伐採され、燃料材として村民に用いられたことは明らかなことである。
 明治・大正にくだっての村の林業は、いわゆる切る林業から植える林業へと村民の関心を高めることに指導が向けられたが、このころの指導的立場にあって植林事業に大いに努力貢献した近江新三郎の功績を挙げてみることにする。
 
 明治十二年三月十八日(火)函館新聞雑報に「亀田郡赤川村四二番地住人近江新三郎(この年五十三歳)は性質正直にして一家親睦能く家を治め、又人に交わるには信愛を専らとする至って伶俐(りこう)なる者にて、従来農業に勉励して富豪の聞えあり、村中にも肩を並ぶる者無き程なり。二十年以前より樹藝(きをうゆる)のことに意を注ぎ、追々数ヶ所の地へ杉・松・檜・桐・椵松(からまつ)などの苗木を植付けしが、今は皆生茂して所々に欝々たる山林を見るに至りければ、同村の者も競ふて樹藝の道を新三郎に尋ねて、各々山野へ諸々(もろもろ)の苗木を植付ける様になりたるは、全く新三郎の引立にて斯くはなりたり。されば是迄は村内に家作(かさく)などのある節は、他所より材木を買い取りしが今後は却って他方へ売出すの勢に至るも遠きにあらぬべしと。又同村は函館を距(さ)る三里許の僻地なるが今に小学校のなきを新三郎は深く心に掛けいたりしが、去る四日村内の有志を集め今度新たに小学校建設の事を議し、其の入費は少しも官費を仰がず、自(みづ)から若干金(そくばくきん)を出金することにして他の有志へも出金を勧めしに誰一人も其議を拒む者なく、夫々家産に応じて出金せしが、今は其の寄付金三百円余りになりければ不日開校の儀を其筋へ願い出ることに決して昨今小学校建築中の由、実に感心なる人にて多く得がたき人物なると去人(さるひと)から報知を得たり」とある。
 昭和以降は、村の植林行政により又村の有志の主唱に従い、協同的に造林事業が進んできたものといってよい。