新制中学校の発足

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 二十二年四月一日より各国民学校は小学校と改称することになり、亀田、鍛神、赤川および桔梗がそれぞれ小学校の名称となり、新制中学校(三か年)を各小学校に併置することになった。以上により、義務教育は九か年となり、新制中学校建設が大きな課題となった。とりあえず二十二年五月より次の中学校が発足した。

[中学校一覧]

 学校長は各小学校長が兼任、生徒は二十二年三月小学校を卒業した者から義務制としたため、二年生および三年生は希望者の入学であり、従って二年生と三年生は比較的少人数で、特に高等科を卒業して、更に新制中学三年に進む者が少なかった。
 教員の多くは小学校からの転任あるいは講師として採用するなど、急速な実施のため、教員不足に悩む学校が多かった。
 施設設備、教材教具なども間に合わせ程度であり、独立校舎の建設には戦後の財政不如意から思うにまかせない状態であった。しかし、亀田村においては、村長事務引継書にも示されているとおり、独立校舎の建設を考え、その実行を引き継ぐことを要請していた。
 一方、戦後における亀田村の児童増加によって、二部授業を行うこととなり、その解決策として、校舎の増築を当然計画しなければならなかった。六・三制の実施と、児童増加の二重におよぶ学校教育の伸張に対し、村理事者はその解決策として、まず亀田小学校港分校の設立に踏み切ることになった。