[教育委員会発足当時の機構]
(教育委員会発足当時の機構) | |
┌─総務係 | |
教育長 ─┼─学校教育係 | |
└─社会教育係 |
係長一人で三係を兼ね、ほかに臨時の職員がわずかに一人という状態であった。
その後三十四年に課制を施行、左記のように改めた。
[昭和34年の機構]
(昭和34年の機構) | ||
┌─総 務 課 総務係 | ||
教育長 ─┼─学校教育課 学校教育係 | ||
└─社会教育課 社会教育係 |
職員は教育長の外三名であって、課長が係長を兼務した。
課制を実施したころから、亀田地域の人口が次第に増加し、学校教育、社会教育の両面にわたり多忙を極める状況となり、職員を二名増加して、それぞれの分野に対処することにした。
三十八年には公民館設置、四十年には学校給食センター設置、新設小学校の開設など次第に教育業務が多くなり、各機関に責任者を置くことにした。
四十六年市制施行当時は左のとおりである。
[昭和46年の機構]
(昭和46年の機構) | |
┌─庶 務 課 庶務係 施設係 | |
├─学校教育課 学務係 教職員係 | |
├─社会教育課 社会教育係 公民館係 体育青少年係 | |
教育長 ─┼─公 民 館 | |
├─青少年会館 | |
├─第一学校給食センター | |
└─第二学校給食センター |
事務局職員二〇名、教育委員会所属職員は定数八三名、そのほか臨時職員を加えると、一〇〇名に達するほどになり、教育委員会発足当時の辞令簿には、九名の所属職員であったことを考え、その進展はまことに驚異に値するというべきであろう。
また、社会教育主事を任命し、職員を次々とその講習に参加させて資格の取得並びに研修に努力することを例とした。社会教育課長の大河弘成をアメリカに派遣し、社会教育の実際を視察させ、亀田の社会教育のため益する点が多大であった。社会教育指導員の設置も道南では亀田が最初である。
市単独で指導主事を設け、学校教育の研究実践において高水準を誇る亀田の教育を、より高く進展させることを企図した。市の教育研究所の実践はまことに優秀であり、各学校も研究に熱意を傾けていた。毎年の研究誌の外、『わたしたちの亀田』『郷土資料かめだ』の発行なども研究所の力であった。
また、最近は毎年、『亀田の教育』を発刊して、亀田市の教育の実際を紹介している。