衛生センター
昭和四十三年三月町議会において亀田町清掃条例が設定され、町の汚物収集処理事業を全面的に町の責任において実施することになった。そのうち特にし尿処理施設設置の問題に関しては、町当局、議会ともに大いに尽力して、ようやく設置実現の運びとなったのであるが、この実現の過程をみることにする。
一 昭和四十二年二月十六日より開会の臨時町議会で、字神山二九七番地に「亀田町衛生センター(し尿処理施設)」設置新築の件が原案どおり可決した。この時、本会議に提出された陳情「し尿処理場設置に伴う井戸水補償等陳情」(赤川部落運営会会長工藤喜代蔵)は採択され、常任委員会に付託された。また、同年三月十三日開会の定例町議会に提出された陳情「し尿処理施設設置に伴う環境整備についての陳情」(神山部落運営会会長小柳勲ほか二名)も採択され、常任委員会に付託された。
二 町議会で可決になった当町のし尿処理施設は、厚生省の認可もあって同月二十六日に着工した。この衛生センターは昭和四十一年度と四十二年度の二か年継続事業として、し尿処理人口四万一、〇〇〇人を対象として五〇キロリットル槽で消化方式により施工するものである。請負業者は東京の西原環境衛生研究所で、工事費総額九、三四七万五、〇〇〇円で、このうち西原の請負額は八、〇〇〇万円である。工事完成は同年十一月末を予定し、完成後は三、四か月の試運転を行い、正式運転開始は四十三年四月の見込みであった。この衛生センターが完成すると、不経済非衛生的で非能率的な当面のし尿捨場も不必要となり、要処理人口四万一、〇〇〇人程度になるまでは、安心して衛生的にし尿処理ができる道南初の施設となる。
三 本し尿処理施設単独設置までに至る経緯は、次のような状況であった。
農家の貴重な肥料資源として利用されてきた「し尿」も、労働力の減少や農業形態の近代化に伴う化学肥料の施肥などによって農村の需要激減と衛生上の問題から、この「し尿」を衛生的に処理すべきであるとの機運が盛り上がり、昭和三十九年春以来上磯・七飯・大野・亀田四か町共同で衛生的処理方法が協議され、一部事務組合を設置し、速やかに処理施設の建設に入るべきであると、同年十一月亀田町役場内に「準備事務局」を設置した。その後事務局において、し尿処理施設建設候補地の検討を続けたが、四十一年九月に至って、第一候補地久根別川付近、第二候補地常盤川・石川付近ともに立地条件が悪く、設置不可能となった。
四 一方当町議会においては、四十一年二月臨時議会で、当面のし尿処理対策、施設の検討などを目的とした「し尿処理調査特別委員会」(委員長小干場義雄)を設け、四町共同設置の促進や先進地の施設研究など精力的に活動を続けた。しかしながら四か町の共同設置が
ア 他の三町のし尿処理状況から急速な施設設置を要しない。
イ 建設場所の選定折り合いがつかない。
ウ 当町のし尿処理は限界に達し、これ以上建設を延ばすことはできない。
などの理由から、
エ 四か町の話合いを続行することは無意味であり、函館市との共同処理も拒否されたことから、四十一年九月特別委員会で、「町単独で設置することもやむをえない」との結論に達し、町議会に報告了解を得たのである。
五 この時すでに四十一年度し尻処理施設に対する国庫補助対象の指定も終わった時期ではあったが、道と厚生省への運動の結果、同年十二月に入って国庫補助の見通しを得、町議会に図り四十二年二月二十三日正式決定をみたものである。
六 昭和四十二年二月に着工した亀田町衛生センター(し尿処理施設)は、四十三年二月完成した。センター完成により従来亀田町衛生連合会が行っていた、し尿・ごみ収集処理作業や料金徴収の事務を同年四月からは、町の責任で実施することになったことは、先にも述べたとおりである。衛生センターの施設、処理能力は次のようになっている。
亀田町衛生センター(昭和四六年三月三一日現在)
敷 地 面 積 二五、三九三平方メートル
建 築 面 積 二七九平方メートル
建 設 費 九七、九一八、二三三円
処 理 方 法 消化活性汚泥処理
最大処理能力 一日五〇キロリットル(四一、〇〇〇人分)
対象世帯および人口 一二、一二九世帯 四六、一〇〇人
所 在 地 字神山二九七番地
設 立 年 月 昭和四十三年二月完成
特別清掃区域内のうち、浄化槽処理によるものは除外