終戦後の招魂祭典は、その執行が民間団体によって行われることになり、村では、亀田村忠魂碑奉賛会と亀田村遺族会の共催で実施されてきている。恒例の祭典行事の実況を、次に挙げてみる。
昭和二十八年九月十日、恒例の招魂祭典は故奥村忠次郎はじめ二一五柱と本年新たに故西村武雄ほか四八柱を合祀して厳粛に挙行された。この日晴天に恵まれ定刻十時には、赤川通忠魂碑場に来賓、遺族一二〇名余が参列し、祭典挙式のあいさつに続いて、修祓、降神、献饌、斎主祝詞奏上がなされ、祭典委員長、奉賛会長、村議会議長、道知事(代理福地主事)から祭詞を奉呈し、次いで各界代表の玉串奉奠がなされ、正午祭典を終え、引続き午後一時からは、奉納村内対抗相撲大会と遺族慰問の演芸会が催され、夕刻五時には祭典行事の一切を終了した。
昭和二十九年八月二十日、恒例の招魂祭典は故奥村忠次郎はじめ二六三柱と、本年新たに故水元勇太郎ほか四柱を合祀して盛大に厳修された。この日霧雨降るなかで定刻十時には遺族一九〇名余、来賓一三〇名余が参列し、祭典挙式のあいさつに続いてのあとは型どおり祝詞奏上、祭祀奉呈、玉串奉奠と進められ、正午式典を終え、引続き遺族慰安の赤川チェリーキングスター楽団伴奏の演芸会に移った。午後一時三〇分からは、奉納村内青年対抗相撲大会を行って夕刻五時すぎ祭典行事の一切を終了した。
昭和三十六年八月二十日、神山忠魂碑場において故奥村次郎はじめ二八二柱の招魂の儀がいとも厳粛に行われた。祭儀は恒例のごとく進められ、正午に終了し、午後からは例年どおりに演芸会、相撲大会を開催し、遺旅を慰安し、午後五時には一切の行事を終了した。
昭和四十一年八月二十日、本年の招魂祭典は赤川通忠魂碑場において行われた。この日はあいにくの悪天候ではあったが、遺族一五九名、来賓六七名参列のもとに、二八二柱の招魂の儀を、恒例の祭儀次第により行われた。午後からの遺族慰安行事も例年と同じく演芸会、相撲大会など盛大に行われた。
昭和四十六年八月二十日、長い間用いてきた町の招魂祭典の名称を、今年から「平和祈願式」と変えて用いることになり、祈願式も神山稲荷神社境内に新設の忠魂碑場で行われた。また、この日は例年の祭儀挙式の中に全町民が戦歿者の冥福を祈念し、平和への誓いを新たにするため、午前一〇時四〇分サイレンを鳴らすことが組み入れられた。定刻サイレンの合図とともに、職場や家庭ではその場で黙祷をささげた。