町制施行後わずか八年にして、四十五年第一回定例町議会に「亀田市制早期実現方の要望」(亀田市制研究同盟会長西村光栄)が提出された。合併問題は別にして、亀田町の発展は驚くべき勢いであり、四十四年十一月末には登別町を抜いて、町では全道一(四五、四四八人)の人口となった。本道には三万人程度の市があり、人口においては当然市制を施行してもよいと考えられ、住民の中から市制への要望が提出されるようになった。
町議会では「市制調査特別委員会」(委員長関本政蔵)を設置した。四月十日の委員会では、今後の進め方について検討し、市制施行については、住民の意向を知るための調査、町の諸般の現況の把握、人口など類似市町村の実情、四十五年十月一日に行われる国勢調査との関連などについて調査することに決定した。
四十五年九月に開会した町議会において、市制調査特別委員会が、前後六回にわたった審議の結果を委員長より報告、「亀田市制」の要望を採択することに決定した。
十二月議会において町長が市制施行の意志を表明した。通称「三万都市法」が施行されている現在、市制施行に必要な人口がそれをはるかに上回り、住民有志から提出された市制施行の要望書が議会において採択された結果、町長は函館市との合併は早期に実現することが困難であると判断し、市制施行に踏み切ることになった。
通称「三万都市法」によらず、地方自治法第八条による市制も可能(四十五年十月の国勢調査では五万人を六〇〇人超える)となり、合併問題とは切り離して、「市」に昇格させ、その後住民の意志を尊重し、合併問題解決に向けて最大の努力をすることとし、四十六年二月に「市制施行準備室」を設け、市制への準備を進める一方、五月末から六月上旬にかけて、道知事、道議会議長、道議会総務常任委員会にそれぞれ市制施行の陳情書を提出した。
道では六月十六日から三日間、また、自治省は道の意向を受けて内協議のため、七月二十八日から二日間、町内をそれぞれ調査した結果、自治省からは当町の市制について異議がない旨の連絡があった。
道議会の総務常任委員会は、八月四日、五日に町内の調査を終え、九月四日の総務常任委員会で当町から提出されていた陳情書を満場一致で採択した。
九月七日、町議会において、
○ 亀田郡亀田町を亀田市とすることについて
○ 亀田町の字の名称変更について
右の二議案を可決し、十一月一日から亀田町を亀田市とすることについての申請書を、九月九日付で北海道知事に提出した。
この申請により、知事は九月定例道議会に提案、九月三十日正式に議決し、自治大臣への届出、官報告示(十月二十八日)を経て、亀田市が誕生することになった。
十一月一日、道内三二番目の市として市制が施行され、亀田市が誕生した。十月末の人口は五万六、〇三九人、道内では人口数で一四番目であった。
市名石碑の除幕式、市制施行式、記念式典などがあり、合併問題と離れて、亀田市の発展を祝う雰囲気であった。