図1・3・1 志苔館跡周辺地形図(発掘調査報告書)より
館跡は標高一七~二五メートルの段丘縁の地形を上手に利用して作られており、形はほぼ矩形を呈し、四方に土塁を築き、沢地形を使って空濠を巡らしている。土塁が巡らされている郭内は、東西七〇~八〇メートル、南北五〇~六五メートルで、約四一〇〇平方メートルの広さがあり、北側より南側にかけて僅かに傾斜するがほぼ平坦となっている。土塁は、郭内との比高が北側で四~四・五メートル、南側で一~一・五メートル程あり、頂上部は幅約二メートルの平坦面が全周に巡っている。東側と西側および南西側の三箇所で土塁が切れていて、西側が主たる入口となっている。幅一〇~一五メートルの土塁に隔てられる郭外は、北側が幅五~一〇メートルの濠、東側が渓沢を挟み、それぞれ段丘の平坦部に繋がっている。また、西側は幅五~一〇メートルの二重濠と、幅約一〇メートル、現況面との比高一~三メートルの土塁が続き、志海苔川の河口に面している。さらに、南側は海に面して急傾斜地となり、志海苔漁港や志海苔の市街地が広がる海岸線へ続いている。
前に、この志苔館は、一四世紀末期、津軽の「日ノ本将軍」安藤氏の支援のもと、「渡党」の小林重弘が築造したと、仮定して述べた。それは、志苔館跡のどんな遺構・遺物からそういえるのであろうか。再び『発掘調査報告書』で確認してみよう。