コラム (志苔館跡と「史跡志苔館跡保存会」)

44 ~ 45 / 521ページ
 『北海道巡回紀行』や「志苔館跡碑」の史料を総合すると、明治から大正期の志苔館跡は、ほぼ次のように推移したといえる。すなわち、明治十八年の頃、志苔小学校の「農業現術場」(今日の農業実習場)になっていたのを、明治の一時、陸軍が軍の用地として使用していた。のち、それを「マルナカ吉田」が買い受けたため館跡は個人の所有となってしまった。

志苔館跡とその周辺(函館市教育委員会提供)

 そこで、宇賀小学校初代の留目政治校長が志苔館の保存を目的に、宇賀同窓会に働きかけ、その館跡を吉田から、同窓会の基本財産として寄贈してもらうべく、中村長次郎を代表に村中一同で請願した。その甲斐あって、明治三十三年には、名義書換えの申請も終わり、館跡の権利は同窓会に移転したという。
 ただ、その館跡の所有権の移転については、法的にいえば、明治三十二年に、吉田家から宇賀同窓会、会長の中宮六蔵および沢田源之助が買い取った形をとり、大正五年に、中宮六蔵から中宮亀吉・沢田源之助に名義変更になっている。
 大正七年、「志苔館址碑」を造立しようと尽力した同窓会長が中宮亀吉その人である。
 「史跡志苔館跡」によれば、大正末年、北海道庁の現地調査がなされたが、館跡の保存状態は良好であるとされ、これに基づき、昭和九年、ついに国指定の史跡となった。昭和四十二年に市立函館博物館による館跡の一部試掘調査がおこなわれ、翌年、郭外の壕および周辺部も史跡の追加指定を受けた。
 こうした先人の努力を引き継ぎ、「史跡志苔館跡保存会」が昭和六十二年十一月五日に発足し、地内の唯一無二の文化財保存に汗を流して現在に至っている。