松前における海産干場は、明治九(一八七六)年の地租創定により個人所有の土地となるまでは村の共同所有の土地であった(「地租創定規則留」北海道立文書館蔵 簿書番号一八七七)。
さらに西在の村むらや東在の一部の村では地租創定の調査に際しても海産干場の一村持を願い出たが、最後には開拓使の説得に応じ、一人持ちを受け入れた経過がある。その折に諸村から開拓使に提出された上申書(「海産干場調査ニ付諸上申留」北海道立文書館蔵 簿書番号一八二五)などに、従来の干場利用のあり方からして一人別の割り渡しを受ける必要性のなかったこの地域の村が、開拓使の説得によりそれを受け入れることになった様子をみることできる。
しかし、海産干場の私有化後、漁民各人が割り渡された場所をそのとおりに使用したとは考えにくい状況があり、海産干場の所有権は地租創定により各漁家が持つことになるが、実際には村が干場の管理をしていたのではないかということが考えられる。
一方で土地や船、網などを平均以上に多く持つ一部の漁家が均等に割り当てられた干場の外にさらにより価値の高い干場の割り渡しを受けて建網漁を始めるなど、干場の個人所有を契機に発展していく面もみられた(宮崎美恵子「地租創定関係文書から見た松前の村の実態」『松前藩と松前』第31号)。